砂の女:安部公房

砂の女 (新潮文庫)
砂の女 (新潮文庫)
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安部 公房
新潮社
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本小説において、まず一つの読みができるように思える。仁木の砂への態度の変化として。まず、小説のはじめ、仁木は砂を流動するものとしてとらえている。それは例えば次のようにいわれる。

砂は決して休まない。静かに、しかし確実に、地表を犯し、亡ぼしていく……

(15)
または百科事典から拾われた定義。これは明瞭に砂の個体としての性質を表している。

《砂――岩石の砕片の集合体。時として磁鉄鉱、錫石、まれに砂金等をふくむ。直径2〜1/16m.m.》
[…]砂とは要するに、砕けた岩石の中の、石ころと粘土の中間だということだ。[…]
《……なお、岩石の破砕物中、流体によってもっとも移動させられやすい大きさの粒子》

対して、彼が出会う女は、砂を固定したものとして考えている。

「砂も、もうたっぷり、露をすっていますからね……塩っけのある砂は、露を吸うと、糊みたいに固まってしまうんですよ……」

彼はこの考えに反発する。特に強い反対を示すのは、砂が湿るものであるという観念にたいしてであるように思える。彼にとって砂はまず乾燥したものであるからだ。

「……だからといって、砂で梁が腐るってのはおかしいじゃないか。」
「いいえ、くさります」
「しかし、砂ってやつは、もともと、乾燥しているものなんだよ。」
「でも、腐りますね……砂がついたまま、ほったらかしにしておいたら、買いたての下駄だって、半月もたたないで、融けてしまったって言いますからねえ。」

それにしても、このしめっぽさは、やりきれない。いや、むろん砂がしめっぽいのではなくて、自分の体がしめっぽいのだ。

なぜ彼にとって砂はこれほどまでに水と出会わないのだろうか。彼が無知なのではない。われわれには、彼が砂と水の両方の性質をよく理解していると思うだけの根拠がある。例えば、新潮文庫版43ページ。


彼にとって、砂から脱出しようと試みる理由の一つは、砂は家、それもしっかりとした地盤を必要とする家にとってけっしてよい場所ではないからである。彼がまず苛立つのは、家の場所や構造に問題があるのに、それの改善は為されぬまま、無駄な努力を延々と継続するということそれ自体に対してだろう。水の上に船が浮かべられるべきなのと同様に、砂の穴の底には家ではなく「揺れ動く樽のような形をした家」を浮かべるべきだと彼は構想する。砂漠の上には、樽(=舟)の集合=船団(=村、町)が浮かべられるべきだと、彼は考えている。

(この砂への敗北を運命付けられた抗いは、われわれに無縁のものではない。我々が過ごす日常も、これと同型を持っている。実際、この砂地の村は仁木が過ごしていた社会と同等の資格や困難を持つ共同体であり、社会/村における流動/定着、包含/疎外、被害者/加害者、合理的/不合理といった見かけ上の対立は視点(背景信念)を都市/村のいずれに置くかによって反転し、双方の差異はかなりの程度まで消失してしまう。そのため本小説を、砂の中の生活、日常性を直視することによって、日常性から抜け出た視点を獲得する小説である、とする読解も存在する)

彼の砂に対するイメージの変化は、水との漸進的な出会いとして位置付けることができる。まず、彼にとって砂と水との関係は並行的である。それはそれぞれの(流動という)性質を例化するけれども、それぞれが交わりはしない。上にあげた砂の上の船がその例だろう。
つづいて、汗を吸い込んだ砂が肌に密着してかぶれさせる「砂かぶれ」(57ページ)や、梯子を作ろうと家の板を引きはがすと、砂(に含まれた水)の浸食作用によって腐っていたこと(126)、雪と砂が重なったぬかるみである「塩あんこ」(193)などは、それらの混交を例化したものといえる。

彼が作った罠、《希望》は、まず「砂の法則を利用した」ものである。それは鴉を、まるで彼自身のように、砂に「生き埋め」にする仕掛けである。われわれはこの《希望》が彼に砂の毛管現象を発見させることを知っている。それはつまり、「砂の法則」が水の法則ときわめて原理的なレベルで絡み合っているということである。

男は、次第にこみ上げてくる興奮を、おさえきれない。考えられる答えは、一つしかなかった。砂の毛管現象だ。砂の表面は、比熱が高いために、つねに乾燥しているが、しばらく掘っていくと、下のほうはかならずしめっているものである。表面の蒸発が、地価の水分を吸い上げるポンプの作用をしているためにちがいない。[…]けっきょく、砂地の乾燥は、単に水の欠乏のせいなどではなく、むしろ毛管現象による吸引が、蒸発の速度に追いつけないためにおこることらしい。言い換えれば、水の補給は、たゆみなく行われていたのである。ただ、その循環が、ふつうの土地では考えられないほどの速度をもっていた。

問題は、これからである。彼の認識はこの発見によって変化する。それは「まるで高い塔の上にのぼったような気分」と表現される。本小説において、高さはまず視界の広さである。大まかに三つに分化された段階がある。まずは穴の底。「穴の底にたってみれば、眼にうつるものは、ただ際限もない砂と空だけだ……目の中に閉じ込められてしまったような、単調な生活……」(64)続いて村。「城壁のように」続く砂丘の稜線によって取り囲まれた村。(16)最後に火の見。「いつも誰かが、火の見から、双眼鏡でのぞいていますから……」(140)

(確かに社会の権力はフーコーのいうように、監視から生じる。裏返しになった社会である本小説の村においても、火の見からの視点は権力をすぐさま構成する。しかし、ここでは権力の前に視界が確保されている。権力が発生するのは、その後である)

では、この「高い塔」にのぼったような気分とは何だろうか。まず最初には裏返った穴である。地表に窪んだ穴を反転させれば、高い塔となる。視点自体を視点の変更によって顛倒しているとも言える。

(脱線するが、この裏返しの発見が、彼にとって村/社会を反転可能にさせ、先にいった、それらの同型性に到達可能にする当のものであるとも、考えられる)

ただし、それは単純な高さではない。それは火の見から「双眼鏡で」のぞくこととは決定的に異なっている。なぜなら、それはどちらかといえばモザイクに眼を近づけることに相似するからだ。

モザイックというものは、距離を置いてみなければ、なかなか判断をつけにくいものである。むきになって、眼を近づけたりすると、かえって断片の中に迷い込んでしまう。一つの断片からは抜け出せても、すぐまた別の断片に、脚をさらわれてしまうのだ。どうやら、これまで彼が見ていたものは、砂ではなくて、単なる砂の粒子だったのかもしれない。
あいつや、同僚たちについても、そっくり同じことが言えた。これまで、思い浮かぶものといえば異様に拡大された、細部ばかりであり、[…]そんな部分ばかりが、やたらと間近にせまって、彼に吐き気をもよおさせてしまうのだ。だが、広角レンズをつけた眼には、すべてが小ぢんまりした、虫のようにしか見えなかった。[…]砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。

(224)
だから彼の変化は単純な裏返しではない。ここで「広角レンズ」が対立しているのは、な双眼鏡だろうと思われる。
それから、彼は《希望》…溜水装置の研究に集中する。彼はこの砂の村に来る前も昆虫採集を行っており、穴に閉じ込められてからも様々な実験をしていたのだけれど、それはみな何かのための手段、つまり昆虫の発見者として名を残すためや、または穴から脱出するためのものだった。彼の変化は、第一には脱出への執着のなさとして我々に印象付けられる。研究と脱出を秤にかけて、研究をとるという仁木の最後の行動にもっとも印象的な形で現れているのがそれである。
また、その補足的な比喩として切符の比喩がある。往復切符と片道切符の比喩である。
端的には、片道切符とは、「昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活」のことであり、往復切符とは、映画などで一時的な非日常を体験しても、「昨日の続きの今日がまっていてくれる」生活だとされている。
例えば、われわれの町や都市での生活は都市から追い出される=片道切符の旅にでることへの恐れが常にある。つまり、日常が崩壊することへの恐れである。また、それとは反対に、村では「愛郷精神」という規範が掲げられている。これは、社会の規範としての往復切符の強調に思える。つまり、往復切符なしに社会は成り立たない。
(この「規範=往復切符=反復」とは、かつて仁木が昆虫採集などの気晴らしにおいて逃避しようとしていた当のものである。彼には定着とそれからの脱出をもとめる、相反した欲望があることは指摘されている)

ただし、ここで注意しなくてはならないのは、往復切符と片道切符との差異は、おおいに心理的なものだということだ。言い換えれば、反復であるか特異的な出来事なのかが双方を分けるのではない。彼は砂の中で反復する毎日を過ごしていても、片道切符を嘆くからだ。これらを区別しているのは、帰属意識だろう。彼が最後に手に入れた「行き先も、戻る場所も、本人の自由に書き込める余白になって空いている」往復切符も、その点から考えなければならないだろう。(そしてこの時点で、彼が社会に戻らない理由については、明らかである)

(また、彼の視点を考えるとき、彼がかつて同僚の「メビウスの輪」氏に語っていたような流動からの視点も併せて思い起こされる。具体的な対応は説明できないが、参考までに引用しておく。ここではむしろ個体ではなく集合としての砂、モル的な砂のみが存在しており、よりどころ(=故郷、往復切符?)は幻想であるといわれている。

「どうでしょう?……ぼくは、人生に、よりどころがあるという教育のしかたには、どうも疑問でならないんですがね……」
[…]
「つまり、無い物をですね、あるように思い込ませる、幻想教育ですよ……だから、ほら、砂が個体でありながら、流体力学的な性質を多分にそなえている、その点に、非常に興味を感じるんですがね……」
[…]
「いや、ぼくが砂の例をもちだしたのは……けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか……砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない……砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだという……どうも、上手く言えませんが……」
[…]
「そうじゃないんだ。自分自身が、砂になる……砂の眼でもって、物をみる……一度死んでしまえば、もう死ぬ気づかいをして、右往左往することもないわけですから……」

(94)
)



このようにして、われわれは本小説を仁木が広い視点を獲得する小説として読むことができる。しかしそれでも疑問が残る。それはいまだ仁木は事実上自由が奪われているように見えることであり、また、このような読みは本小説を単なる観念小説にしてしまい、本書の語りがリアリズム的描写によって支えられていることを見落としてしまうのではないかという問いである。本当をいえば、今のところ、私にはこれらの問いを納得のいく形で解決する方策が見当たらない。この記事ではこれから、いくつかの断片を記しておくに留まるだろう。


まず、彼がいまだ穴の中に閉じ込められており、客観的にみれば、彼はいままでより、より少ない自由しか持ち合わせていないのではないかという疑念。
われわれは、これを次のように考えることができるかもしれない。まず、穴の中と社会とは構造的に相同である。(論証は省くが、以下の論文集にはそれを中心に論じた論文が所収されている。そちらを参考のこと)どちらにも実質的な自由はない。(もともと、彼は社会からの逃避として砂漠にやってきたのだった)よって、問題はむしろこの社会と村に共通の構造を乗り越える可能性を考えることである。
それを踏まえて、小説中のある挿話の、講師の発言を読んでみる。
「労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働を乗り越える……その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。」(153)
おなじように、日常性の徹底によって日常性を乗り越えるという可能性もあるのかもしれない。

また、彼が小説の最後で着手していた研究は、手段ではなく、目的にとらわれたものではなかった。ここでもやはり、メビウスの輪氏との想像上の会話が思われる。

「そいつは、きみ、典型的な、手段の目的化による鎮痛作用ってやつだよ。」
「まったくだ、」彼は手もなく同感する。「しかし、手段だ、目的だと、そういちいち区別しなけりゃならないものだろうかねえ?……必要に応じて、適当に使い分けたって……」

(170)
われわれは彼と(彼の本心を打ち明けることができる人間である)メビウス氏の一連の会話を思い出すことで、彼の隠されていた欲望を知る事ができたように思う。振り返ってみると、本作品は彼が自らの隠された信念を発見し、実現する小説であったようにも思える。


もう一つの問いについては、いっそう何も言えない。読解であれば、本小説の舞台の村は我々の(現実的な)社会から地続きである(電車で向かえる範囲である)ことが指摘されており、その表現の手法であるとも言える。また、砂や昆虫への微視的な視線は、先ほど見てきた双眼鏡の視点の文体的表現であるともいえると思う。




本小説には何か惹かれるものがあり、長い間何か書きたいと思っていた。しかしいざ考えてみるととらえどころのない観念に押し流されてしまい、結果出来上がったエントリーは訳の分からないものになってしまった。本日それを反省し再考して書き直したわけだけれども、これで本小説に対して何かがいえたわけではないように思う。未だに書き落としたものは多いし、読むたびにわかり、わからなくなる。こういった曖昧さの中で書くことは、初めは明らかに失敗したわけだが、その失敗も含め勉強になったように思う。最後に、この記事は以下の論文集を参考にした。それぞれの論文は本小説に一定の見通しをたてるのに大いに寄与した。編集者と執筆者に感謝します。