巨匠とマルガリータ:ミハイル・ブルガーコフ

イワンの前にヴォランドと名乗る外国人が現れる。彼は次第に悪魔的な存在であるということがわかってくる。関わった人々が詐欺にあったり精神病になったりするからだ。ヴォランドとその一味は、巨匠とマルガリータを救い出す。小説が公開されずに精神病を患ってしまった巨匠とその恋人マルガリータ。彼女はヴォランドと契約し、魔女になることで巨匠を救い出す。巨匠は自らの小説を完成させ、二人は永遠の隠れ家に向かう。壮大なSlapstickの舞台となったモスクワは、新たな病人を抱えて残される。

この500ページ強の小説に立ち向かう術はないようにも思える。本作品について述べることは、自らを語ることに等しいような気さえしてくる。


二種類の書物、本作品で原稿(manuscripts)は燃えない、とはっきりと言われ灰から原稿が救出されること(「巨匠の救出」:428page)と、続いて「書類がなくなれば、人間も存在しなくなります」とコロヴィエフ(ヴォランドの仲間)が語りまたヴァリエテ劇場での出演契約書や一味の行う一連の紙幣詐欺など、ようするに偽造されるものとの間には間隔がある。

前者、小説が未完のためじつに二千年のあいだ周期的な不眠に苦しめられ続ける巨匠の作品の作中人物ピラトゥス総督を救うのは、巨匠にしかできないだろう。また同様に巨匠もすぐあとで自由を与えられるけれども、それを与える人物は「彼」とよばれるヨショア(ナザレのイエス)だろう。
だから二つの世界(物語の世界と、現実の世界)が在り、間には因果的な相互性があるようにみえる、けれども、ピラトゥスを救うことは完全に(作者という特権のまま)巨匠の意のままに行われるのではなく、前もって彼は許されている必要がある。(「(…)あれほど話をしたいと望んでいた男が、すでに彼を許したのだから」ここでヴォランドはふたたび巨匠を振り返って、言った。「さあ、これで、あの小説をひとつの文章で結ぶことが出来るでしょう!」)(「許しと永遠の隠れ家」567)
本小説は図式化を許すような作品ではない、それでも、虚構世界の実在は(もちろん)はっきりしている(それは潜勢的なものかもしれない)こと、そして私たちにとって興味深いのは、われわれの現実にそれが入り込む仕方であると言うことがいえるとおもう。


後者。文学者クラブの会員証明書や、ルーブル札や契約書。電報、パスポート。これらは偽造されたり、意味が通用しなくなったりする。しかしこれらよりもむしろその中間、多数の小説たちのほうが興味を引く。

「おや、ここは作家会館じゃないか。なあ、ベゲモート、この会館についてはすばらしいうわさをたくさん聞かされている(…)この屋根の下に無限の才能がどれほどたくさん身を潜め、成熟しつつあるか、考えるだけでも愉快になるじゃないか」
(…)
「しかし!しかし、繰り返して言うが、しかし、だよ!この温室育ちのひ弱な植物がなにかの細菌に襲われることもなく、その根を蚕食されず、腐敗しなければの話だ!(…)」

(「コロヴィエフとベゲモートの最後の冒険」・521-2)
成熟しつつある「ドン・キホーテ」「ファウスト」「死せる魂」のような文学。それには社会や規範への反発力がおおいに関わっているのではないか、とも感じられる。いや、それは契約書や紙幣を対極に置いたことによる曲解の帰結かもしれない。規範そのものである紙幣とそれを超えた普遍の文学という対は、恣意的にすぎるだろう。

ともあれ、書かれたものが特権的なのではなくて、最終的には、書物よりも文学が実在する。

「どこへ行くにしても、小説だけは持っていかなければ」
「その必要はないよ」と巨匠は答えた。「すっかり暗記しているのだから」

(「出発の時」551)
けれども、正直に言えば、ここでよくわからなくなる。よい文学とそうでない文学との間には、どのような違いがあるのだろう。例えばイワンの詩はひどく、またプーシキンの詩はよいだろう。ひどい作品でも書き続けることは出来る。それはイワンは巨匠に忠告されて、また巨匠は精神の異常によって、そのよしあしとは関係なしに詩や小説を書くことを断念したからだ。だから、よい文学とそうでない文学が誕生するには、その社会、環境がおおいに関わってくる。とはいえ、それでは何もいったことにはならない。
そしてこの独立の実在性をもつだろう偉大な文学、「死せる魂」「ドン・キホーテ」「ファウスト」などについて、私はなにが良いのか、何が良さなのかを考えざるをえなくなってしまう。しかしそれはこの記事でかけるような具体性を一体まとっていない。そのため、ここで立ち向かうことをやめ、ひとまず記事を終わる。いつもにもましてひどくまとまりがなく恐縮だけれども、許してほしい。