「mind 心の哲学」J.R.サール

マインド―心の哲学
マインド―心の哲学
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ジョン・R. サール
朝日出版社
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僕が知っていたサールはやはりその一部だったと考えなければならない。それはデリダとの論争のサールであり、(有限責任会社 (叢書・ウニベルシタス)、要約としては「現代言語論」にもかかれていましたhttp://d.hatena.ne.jp/musashino10/20100319)「中国語の部屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B
のサールでした。ところでこの後者のサールについては、例えば「シリーズ心の哲学」やチャーマーズの「意識する脳」において批判がなされており、僕もそれを読んでどうもそちらに分がある、つまり会話が成立しているのであればそれは言語を理解しているといっていいのではないか、と、思われました。ただ本書においてサールはそれに対する再批判を試みています。



(4/2)中国語の部屋の問題は意味論と統語論の区別と前者の後者への還元不可能性に尽きている。サールは意味論の内部に理解の必要条件を見ている。なぜかといえばその部屋に英語の問いを入力した時には意味論的理解が主体的に含まれるのに対して中国語を入力した場合、その理解は生じていないにもかかわらず、それは外部から観測不可能な性質だからだ。サールが本書で試みた反論は、「システムが全体として意味を持つ」という意見に対するものだが、それは確かに筋が通っているように思える。なぜなら意味をその膨大な可能的成立条件に即してその都度付与することに意味があるのかという疑問があるからだ。それ(システムの応答説)は結局のところ因果的に意味を持ち得ないし、また存在論敵にも根拠を持つわけではなく、ただ識別が不可能である点から要請されているように思える。(ここまで4/2追記)



本書の冒頭を読んだときには、そういったこともあって、どうもサール氏の意見が強く表現されているのではないか、心の哲学を学ぶと共に氏の思考も摂取できるのではないか、ということを思ったのですが、読み進めてゆくと共に訳者解説にある「禁欲的な」姿勢の強さに驚くことになりました。後半詳しく語られる心的因果から自由意志へと向かう部分に僕はそれを強く感じたのですが、物理世界が因果的に閉じていることから心的因果が独立に存在するわけではないことは確実であり、また主観的自由が決断までの時間的延長において体験される体験としてある種機能的に説明可能でありながら、その自由(の体験)自体の存在を考えようとするところで章を閉じてしまう態度の部分がそこにあたります。
また志向性の章も印象に深く残りました。それは内包性と志向性の区別として、まずなぜこれらが区別されなければならないのか、正直なところ最初には腑におちなかったのですが、この区別をまず定義することで議論の混乱を防ぎつつ、ヒラリー・パトナムらの議論に対抗しつつ意味の内在主義をとる、というか世界と意味の関係を捉える際、志向性の意味を充足条件ととり、主体(語る人物)がその条件の設定、外部環境がその答を与えるとして定式化することで意味について透明な見通しが与えられたような気がしたからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
そういうわけで、実に教えられることが多かった本ですが、氏の思想を考えるにはこの一冊では不十分にすぎるので、あまり立ち入ったことは書けませんでした。訳者解説において、心の存在論的還元不可能性というサールの(近年の?)立場を書かれていたのは、読む際に、助けになった、というか、これがなければ恐らくサールの言っている意味がまったくわからなかったろうと思います。

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シリーズ心の哲学〈1〉人間篇

勁草書房
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