「スキナーの心理学」ウィリアム・T. オドノヒュー, カイル・E. ファーガソン

スキナーの心理学―応用行動分析学(ABA)の誕生
ウィリアム・T. オドノヒュー カイル・E. ファーガソン
二瓶社
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更新途絶えていてすみませんでした。これからはがんばっていこうと思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%8A%E3%83%BC
スキナーは正しく理解されていない、と著者らは書いており、そしてなるべく公平に書こうとした、と続けられているように、著者らは学問的な研究においてスキナーに付けられたレッテルを解こうと意図しています。それが具体的にどのようなものか、というのは最初の数章と十一章を読むことである程度はわかるかと思います。ともあれ、まずスキナーが意識についてどのような立場をとっているか、を本書はどのように書いているかを確認しておきますね。

六章でスキナーの認知に関する態度をまとめて扱っているので、ここから引っ張ってきますと、それは独立関数ではなく、また、それの存在を因果的に仮定しなくても機能分析の観点からは問題は生じないので、それは科学に寄与するものではなく、むしろ科学によって説明されるものである。例えばパブロフのケース、彼はその実験によって消化液の「精神分泌」を条件による反応(つまり条件反射)としたこと、これは心理的用語が科学的用語に移し変えられている、として、ある範例を提供している。また、認知は生物学的研究として確定されるものではなくあくまで行動-環境間の次元で解明されるべきこと。これはおそらく、ある種の機能として、認知および精神を扱っているように思えるのですが、それについては差し控えておきます。


このような認知観から、われわれがあまりに多くを環境に規定されているという結論に至ります。それは淘汰に基礎を持つとされ、自然淘汰、行動淘汰(オペラント条件付け)、文化淘汰の三段階の淘汰が分類されています。自然淘汰ダーウィン的な淘汰で、文化淘汰は模倣による強化行動のことをいっているようなのですが、行動淘汰はいまひとつよくわかりません。恐らく環境もしくは環境変化に対して、遺伝ではなく、個体の次元で対応する一連の行動、オペラント行動つまり「環境事象→反応→環境の変化」という定式をもつ一連の強化運動が自然淘汰と並ぶ大きな位置を与えられている、ということだと思うのですが。


これらのことからは自然なのですが、その社会観は自由を否定する形をとります。あまり長くなりすぎるのもいけないので、まず一番重要と思うところを手短にいうことにします。こういってよければそれはアーキテクチャ論に近い立場をとっていて、つまりわれわれの行動はコントロール可能であるし、されているという立場です。またその変動の力動に相当するものをカウンターコントロール、反作用のようなものとして想定していることから、それはどこまでも脱出不可能な立場として与えられています。そしてわれわれの自由(選択)の余地は、その変革か、または異なる(よりよい)コントロールへの移動として定義されている。


ここで(本当は遅すぎるのですが)「強化」と「罰」にスキナーが与えた区別を僕も繰り返さなければならない。強化、罰はどちらも行動の結果に与えられた名前なのだが、それは結果が行動生起頻度(反復の頻度)に増加をもたらすか、減少をもたらすかによって定義される。つまり増加をもたらすような結果が強化であり、逆が罰であるというふうに。スキナーは強化を強調して、それは好意的にとればドゥルーズの「制度」(「無人島」冒頭)ともとれなくもないのですが、実はこの区別は弱点でもあり、

それは本書の十二章で行動分析のスキナー後の動きとして、罪と強化の文脈依存性、つまり決定不可能性が判明してきたことです。彼のユートピア論(小説らしいのですが)について、本書においてはあまり記述されていないため、これ以上は何を言ってもいけないので、ここら辺で。中々想像力が刺激される本でした。それでは。