断片化する理性:スティーヴン・P・スティッチ

(4/15思いのほか長くなってしまったのでここに要約を書いておく。スティッチは心の哲学分析哲学の哲学者。邦訳書は今のところ本書しかないらしい。本書においては認識プロセスが如何にして優劣を序列化できるか、できないとすればなぜか、などという問題系が論じられる。彼の哲学のその後の展開については訳者解説が詳しいけれども、心の消去主義に反論する為の概念の洗練を行ったのが本書、と大まかに位置づけることができるかと思う。この記事はその第一章を読んでいき、必要に応じてその後の章に言及することで、全体の議論の大まかな流れを整理できればと思って書きました。)

冒頭にかかれており、また訳者解説にもあるように、スティッチの思想は独特である。そのため第一章は本書全体の通観になっている。そこではじめにスティッチが標的としているのは、4-6の用語でいえば「分析哲学的認識論」である。
 第四章でスティッチはグッドマン-ロールズの「反省的均衡」にはじまる認識プロセスの評価基準、またその継承としてのネオ・グッドマン流のプログラム、ゴールドマンの「正当化規則」などを検討し、その背後の前提を解き明かそうとしている。たとえばゴールドマンはわれわれが信念を正当化する規則を正当化規則(J規則)と名づけ、その役割を定めることによって「認識論の理論化」のための枠組みを与えている。しかしJ規則は理論家ごとに様々に存在しうるので、J規則の正しさを判断するメタ理論がなければならない。それは複数の「正しさの基準((ある特定の)J規則の集合が正しいための必要充分条件をみたす、条件の集合、つまり正しさの基準も相対的である)」の間の調停を意味する。ではその妥当性はどう判断されるのか。ここでゴールドマンが頼るのが概念分析(概念的説明)である、とスティッチはいう。(p.167)それは日常的、前理論的な直感との合致を目指している。そしてゴールドマンは「正当化についての日常的な考えの説明ないし概念分析」として「反省的均衡」を説明している、とスティッチはいう。
この見解、つまり正しさの基準としての概念分析をスティッチは「分析哲学的認識論」と呼び、これは多くの哲学者に前提されてきた間違いであるとスティッチはいう。
 話を戻そう。更に続けて、いわゆる誤謬推理の例が示される。しかしここでスティッチは(正確にはニスベットという哲学者に帰せられるらしい)それらの推論はなぜ「下手な推論」といいうるのか、なぜ「私」は「下手な推論」とよい推論を区別しうるのか、という問いを提出する。(p.16)そしてグッドマンの反省的均衡が検討された後、「下手な推論は不可能」であるとする、ディヴィドソンとデネットの説が紹介される。そこではわれわれが信念をもちうるには、なんらかの合理性が前提されるというものであり、推論は信念を前提するのだから、不合理な推論は「概念上不可能」である、とされる。スティッチはこれに二章で反論している。
その第二章でスティッチがとる戦略を簡単にいうと、それは志向性とそうでない状態(志向的でない状態)を区別し得ないということだ。そのような区別はグランディのいう「人間中心原理」(p.85)に従う。(ディヴィドソンの寛容原理の基礎でもある)それはいわば感情移入によって計られる。
スティッチがグランディから離れるのは、人間中心原理が自己の無根拠から離れ、数学的な決定理論かそれに類似するものによって基礎付け可能なものとして提示されるときである。(p.87)それは決定理論により基礎付けを行う際に前提されるものとして、観察対象の「信念と欲求の志向的な特徴づけ」が必要とされるからだ。それらは志向的に同定可能でなければならないが、そこではすでに人間中心原理の判断が前提されている。つまり諸要素の同定に人間中心主義が前提される以上、それはその限界に限定されている(よって計算的に基礎付けは不可能である)。
このことから、スティッチは「われわれが下手に推論しうるとしてそれは限界を持つ」という観念を無化しようとする。なぜならそれははっきりとした境界線を引くことが不可能であるような、恣意的な基準でしかないからだ。言い換えれば、これは正しい推論はないということに帰結する。そしてそれこそ、本書でスティッチが主張しようとしたことである。
 一章に戻ろう。p.23では認識論的多元主義について一つの区別が行われている。それは「記述的認識論的多元主義」と「規範的認識論的多元主義」を区別する。しかし私にはこの区別が今ひとつ理解できていない。しかしあいまいなまま説明を試みると、記述的な認識論は認識のプロセスがとりうる形が複数か単数かを論証しようとしており、対して規範的な認識論は「良い認識プロセス」が単数か複数かということが論題でないかと思われる。すると規範的な多元主義のほうは、正しい認識プロセスは複数存在する、という主張である。スティッチがとるのは規範的な多元主義である。
このことからわかるように、スティッチは認識論的相対主義をとる。相対性の中で判断する基準がプラグマティズムである。スティッチは認識論の内部では相対主義は悪いものではないのではないか、という論証を六章で試みるのだが、それは後に回そう。
 スティッチは信頼主義を批判的に検討し、そこで「真なる信念」の価値を疑問視している。(p.39)信頼主義とは認識プロセスの正当化の基準を、プロセスが真なる信念を産み出すのに成功するか失敗するかに求める立場のことである。(認識プロセスについての理論は他に例えば、規範とそれから生じる命題との相互修正により直感に近似させてゆく、グッドマンの反省的均衡がある)信頼主義が説得力を持つのはそれが真なる信念のもつ価値に道具的に役立つからなのだが、スティッチは「真なる信念」自体に価値が無いと論証しようとする。それは第五章で検討される、本書のうちでもっとも独自で魅力的な部分である。ここを過ぎるとスティッチは相対主義の正当化を論証するのだけれども、それはたったいま後に回したばかりなのでここで第五章を簡潔にみておこう。
ここでスティッチが導入するのは「解釈関数」という概念である。それはわれわれがもつ心的命題の内容(真理条件)を現実世界のなんらかの対象に写像する方法である。理論上、解釈関数は無限に存在しうる。この差異をスティッチは[真理、真理'、真理''、…]という風に表記する。(例えばパトナムの双子地球は、互いに解釈関数の異なる世界であると解釈される。世界A=関数Aでは水はH2Oを指示し、世界B=関数Bでは水はXYZを指示する。)これによってスティッチは真なる信念の価値を疑問に付す。それは文化に相対化される。ただしここではやはりもうすこし慎重になったほうがいいだろう。ここは特に誤解を招きかねないからだ。
スティッチはタルスキの真理理論と指示の因果説を5-3で検討している。タルスキは「基底節」とよばれる主語と述語の集合を公理として(メタ言語で)定義し、それから真理条件を定めることを可能にする理論を唱えた。そして基底節の外延を与えるのが指示の因果説であり、それは命名行為から辿られる因果によって外延を確定することができると主張する。後は結合子や量化子といった心的文の要素を機能主義的に説明してやれば、(ひとつの)解釈関数が製作できることになる。それは命題と世界との関係を与えるだろうし、命題の真理条件を確定することで「真なる命題」を基礎付けることができる。
しかしスティッチはすぐさま、こうして構成された解釈関数はそれがとりうる(ありえた)すべての集合からすればあまりに小さな集合である、と語る。つまりそれはどういうことか。まず一つ、結合子と量化子についての意味論の不在がある。われわれは論理的に確定できる任意の計算記号を無数に作り出すことができ、それに対して適切な意味論を与えることができない。(詳しくはp.204〜を参照)ところで意味論が存在しないということは、それについてわれわれは価値を感じられないということである。つまり可能的に存在する無数の解釈関数には、意味論をもたないものが無数に存在する。ではなぜわれわれは今この解釈関数を価値あるものとみなしているのか。(p.214)
ここで価値について内在的な価値と道具的な価値とが区別される。スティッチはこのどちらも否定したいのだが、まず内在的な価値をもつべきではない理由、言い換えればあまり保守的でないほうがいい理由が検討される。ここは相対主義の正しさの論証にもなっており、また想像が飛んで楽しい、いいかえればプラグマティズムの(楽観的)楽しみでもある。(p.217〜)ともあれここでは内在的な価値への固執潜在的な無限の解釈関数のもちうる可能性を遮断してしまう、という観点から、内在的な価値にこだわるべきではない、といわれる。
次は道具的な価値についてだが、これは実は論証する必要がないのではないか、と思われる。なぜなら道具的価値が最善であるということはどう好意的に見ても状況相対的なものを超えないからだ。しかしスティッチが想定している論敵は、道具的に最適である推論は、われわれがもつ直感であると主張する人であるように見える。しかしこのような人物がいるのかどうかは疑わしい。プラグマティストでなくとも、またはパラダイムという言葉を聞いたことが無くとも、次節(p.227〜)においてスティッチが語ることに同意するのは、すこし歴史に目を向けるだけで充分だからだ。(つまりステレオタイプ化された論敵が想定されているのではないか、と思ったのだった)


まあそれは各人に判断を委ねるとして、ついに最後まで来た。プラグマティズム相対主義的であるとして、それはそれほど悪いことなのかと問うのが第六章である。相対主義についての批判が検討され、再批判されるが、それを取り上げる余裕はない。(本当に余裕が無い)ここでスティッチのプラグマティズムが(第一章でも一度行われた、p.38)改めて定式化される。それは解釈関数を取替え可能な道具としてみなし、特定の解釈関数が道具的価値をアプリオリに持っていることは無い、ということから自然に導き出される立場である。それは実行可能な認識システムのなかで、プラグマティックにいって良いものを選択するべき、というものだ。(先ほどの「下手な推論」については、それよりもよい認識システムが実行可能であることを示すことで、それが下手な推論であることを示すことができる(p.285))


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%81
本書自体の内容はこれでおわりなのだけれども、訳者解説などの内容もふまえて、最後にすこし私見を語っておきたい。スティッチはこの後に書くことになる「心の脱構築」(未邦訳)において、本書の内容を敷衍した理論を展開しているらしい。そこでは存在論多元主義とでもいうようなものが語られている。(p.329)そこでは心の消去主義を批判する根拠として、単一で特別関係など存在しないと語っている。むしろそれは無限化されるべきものなのだ。この反還元主義は、サール「心の哲学」にも似たようなものがみられる、けれども、私はあまりに心の哲学において無知なので関係をうまく付けることができない。詳しい方の意見を聞きたいと思う。
「mind 心の哲学」J.R.サール - ノートから(読書ブログ)

面白い本だったけれども、難しかったので長い内容紹介を書いた。もし僕の拙い文章が、誰かの読書の助けになれば、幸いです。
ここまで読んでいただき、有難うございました。