環境に拡がる心:河野 哲也

図書館で読んだ。「主体」を解体する試みは、今まで多くなされてきたけれども、この本が面白いのは、主体に替わるものを提示するのに成功しているところだと思う。デカルトの主体概念、自らの声の聴取というその始めから、主体は言葉に付随してきた。ところがこの言葉概念では取り逃すものがある、と著者はいう。それはバフチンのいうところの対話であり、それは話された文という文法的カテゴリを越え出るものだ。それはおそらく出来事のように空間と時間に場を持つものである。それだけではなく、主体概念を解体することで、言葉の前に現前しない、行為を基底にした主体(もう主体ではないけれど)を素描している。
また著者が基底概念においているギブソンアフォーダンスアフォーダンス - Wikipedia)を展開することで、発達の心理学(いわゆる主体化)、法の哲学、動物の心理学、自由論と、様々な分野の応用を示している点も面白いです。そして挙げた事例を著者が意見に利用する方法もユニークで、これは立ち読みでも読んでもらえたらいいかもしれない。第三章。
いわゆる嘘の自白が取り上げられていて、検察に尋問される被疑者が、自己に他者のデイスクールを内面化する、という事例がまず示される。これだけでも興味深い(そして問題的)のだけれどもこの後、この他者の内面化ではないもう一つのパターンが考察されるのだ。強制された自白ではなくて自発的に嘘を重ねていくような被疑者が存在する、という。するとその物語は実は対話的に構成されるものだ、と著者は示唆している。これは文と会話との区別、瞬間と時間の区別に相当していて、この区別が本書には通底していて、ある程度後者を優先しているように思える。とにかくこのような構成的対話が、われわれが日常に用いる対話の一種のモデルになりうる、と著者は考えているように思える。

もっと読まなければ断言はできない(だからいずれ書き直すかもしれない)が、ともあれ、言語に依拠しない自己、それは行為を調整するようなものであるといわれる。それは言語を前提としない。だから自閉症の事例が冒頭に引かれているのであり、その自己ははっきりした境界を持たない。モデルは違う(こちらは境界をもつ)が、言語を前提としない主体論のひとつに、コネクショニズムの考えがある。シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇に収録されている「表象なき認知」が参考になるかもしれない。



あまり時間もなかったので、いずれ再読したいですね。

追記:著者の河野氏は上記の「心の哲学:ロボット」にも論文を書いてられたのですが、失念していました。ちょうど最近再読する機会があり、それで気付いた次第。すみません。