アガンベン入門:エファ・ゴイレン

アガンベン入門
アガンベン入門
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エファ・ゴイレン
岩波書店
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イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンはその「ホモ・サケル」とその一連のプロジェクトによって知られる。本書ではそのプロジェクトを中心に、アガンベンにおいて一連の概念はどのように絡み合っているかを示してくれている。著者はドイツ人の女性。アガンベンはイタリア人だけれども、訳者解説にもあるように、その思考はドイツ哲学の多くを用いている。

アガンベンについて、僕には何もかけるとは思わないし、本書を読んでもわからないところは多い。ただ主権についてのアガンベンの理論は色々と教わったようにも思う。それについて少し書いてみて、紹介とする。

まず、主権は例外において決断する力であると定義したシュミットにアガンベンは多くを負っている。しかしアガンベンはシュミットをそのまま導入せず、ある種の反転を行っており、シュミットは例外において決断する能力を主権としたが、アガンベンにおいてはその反対に例外こそが主権において作り出される。(「例外の論理」によって)
近代にいたると、例外は収容所において意志的に作り出されるようになる。そこにおいてはもはや例外と規範の区別はつけられない。

(シュミットに従えば)何よりもまず「例外」こそ法秩序を構成するのである

シュミットとは違ってアガンベンは、例外状態そのものがいまや規則や規範になり、《統治することのパラダイム》になってしまったと主張する。

(p.80-82)
主権とは何よりも例外を境界画定し、それを排除する権力であるとされる。

境界を引くことではなくそれを消去することが、「ラントの奪取」ではなく「例外」が、「場所化すること」ではなく「脱場所化」が、そして「決断」ではなく「放棄」が、主権的行為なのである。

(p.95)
ノモスにおいては、裁可された暴力とそうでない暴力の二つが絡み合っている。主権者は暴力と法とを両方とも支配することができる地点である。なぜなら、主権者の行う法維持的暴力は自らを裁可することはないから。この地点をアガンベンは<閾>となづける。

また、主権が権力をどのように行使してきたか。それはホモ・サケル(聖なる人)の分析を通じて行われる。(この形象、ホモ・サケルは、現在我々が素朴にもつ、「生命」に対して感じる神聖さの源泉にもなっている。またこの「神聖さ」がこのような源泉を持つ以上、それは法の外での神聖さを意味しており、何の庇護の無い状態として起源を持つ)

ホモ・サケル」はアガンベンにとって、剥き出しのままの生の原像であった

(p.124)
ゾーエーを境界画定し、それを排除すること。すなわち排除的包摂を行うことによって主権が生産されていたことを、アガンベンはローマ法のなかの記述に見る。ところでこの排除は単純な排除ではなく、排除という形で権力に未だ包摂されている。そのため、この排除が、次第に変化し、管理の対象となる間には、連続性がある。つまり主権権力と生権力は直接に繋がっている、とされる。
単なる生であるゾーエーは人権宣言などを経て次第に排除ではなく管理の対象となる。人権などの獲得とパラレルに起こってきたといえる。特に権力にとってかつて例外、つまり権能から排除されていたゾーエーの生産が権力のうちに固定した場所と時間的持続を持った出来事として強制収容所は一種のパラダイム・シフトを引き起こした。
近代以降の、生が権力の主要な対象になった状態をフーコーは生政治とよんでいる。アレント国民国家においては出生をもって人間が登記されると論じた。

収容所においては、生と政治とがもはや区別されない、という。つまり私的領域において営まれるはずだったゾーエーと、公的領域における政治的生との間が消滅してしまい、単にゾーエーがビオスと同一であるまでに至った。それは例外状態の制作を志向するといういみで、規範の中に例外が位置づけられた、例外が規範となった、ということだった。これがフーコーのいう生政治のパラダイムであり我々がもつ身体である、とされる。

そのため、これからは我々はゾーエーとビオスの区別に頼らない政治が必要である、といわれる。本書を読む限りその「新しい政治」については、あまり像を結べない。そのためこの記事もここで終わる。本書はドイツで初版が2006年、改定が2009年に出版された。アガンベンの主著である「ホモ・サケル・プロジェクト」とよばれる一連の書には邦訳がある。「アウシュヴィッツの残りのもの」「ホモ・サケル」「例外状態」。
例外状態
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人