恥 社会関係の精神分析:セルジュ・ティスロン


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本書では「恥」の概念を分析し、それに伴う様々な心的機制を提示した後、分析治療の指針が示される。本記事では恥の概念について見ていくことにする。恥は分析医が取り組むべき情動である。それは警報と症状、つまり薬と毒の両方を持つからだ。

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罪責感と恥
恥は罪責感と似ている。本書ではまず恥と罪責感を分つ特徴がいくつか挙げられている。例えば、罪責感は主体が「社会的に統合されるための一様式」であり、恥は反対に「脱-統合」、つまり主体の一貫性自体の断絶にかかわるということや、恥が「恥をかかせる第三者」に常に結びつくことから、罪責感が告解などの形で「好んで」告白されるのとは反対に、隠蔽、否認されるということ、また罪悪感の原因は欲望を満たす条件の侵犯なのに対して、恥においては欲望を持つこと自体が禁止されていること、などである。


精神分析の観点からは、例えば次のような差異が提示される。下でいう「太古的なナルシズム」とは、「全能性を備えた存在、すなわち母親」への同一化だろう。

罪責感は超自我と禁止――自我と自我理想に対応する禁止――の内在化とに結び付けられるだろう。逆に、恥は太古的なナルシズムに結び付けられるだろう。
恥においては、自己評価を通じて打撃を受けるのは個人の全体である。

(19)<自我理想>とは、超自我の期待(規範)に応えるために取らなければならない行動様式。主体がこの超自我の要求(自我理想)に従えない場合、主体はそれを罪責感として感じる。いうなれば、主体にとって善いものとして承認された規範。反対に、理想自我はナルシズム的な全能感と結びついている。そして、こちらの挫折は恥と結びつく。この場合、「恥をかかせる第三者」は、他者、つまり他人だろう。本書で紹介されているキンストンの論には、恥は自己と自己が帰属する社会とを調停するとき、「自分自身の感じ方と体験の仕方」を放棄して、他人が感じている感じ方を採用するときに、生じる「個性化の途上で支払わなければならない代償」、とある。

ただし、社会関係自体が後で言われる「愛着リビドー」に起源を持っている以上、社会関係から排除されるという恐怖は常に主体を苛みつづける。ヘルマンの意見として述べられるように、「恥は集団が排除を宣告することによって引き起こす」(18)不安である。

更に、主体にとって自我理想を演じる対象の持つ恥は、主体の恥として体験される。この原理は、恥が家族的に伝達される、という本書のテーゼを支えているし、またこの体内化の作用としてこの恥は言語化不可能なものとなる。(41〜)

というのも、失われた対象の体内化は、この対象が恥で汚されているときには、この対象の恥を隠蔽し、この対象を理想として保持することを可能にするからである。

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恥は内的な規範である自我理想と、社会的な規範の衝突によって、集団から排除される不安が惹起された時に生ずる、といえそうだ。それは欲動の「再調整の必要性をそれ自体のうちに内包する混乱の契機」(31)であり、その場合は主体に再調整を促す「警報」であり、それが悪循環に嵌った場合は「症状」となるだろう。すなわち、欲動の混乱が問題なのだ。

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「恥の共通点は備給の断絶に存ずる」。(32)大まかに言って、三つのタイプのリビドー備給がある。これらは「起源と機能の法則」によって異なる。ナルシズム的リビドー、対象リビドー、愛着リビドー。(47)

  1. ナルシズム的リビドー

「ナルシズム的リビドーは、理想自我と自我理想の諸要求への自我の適合が果たしている重要な役割の中にも、複数の理想の間の葛藤の中にも介入する」(48)
すでに見たように理想自我はナルシズム的リビドーを備給し、主体に全能感を与える。自我理想はたぶん、正しさの感覚を与えるだろう。また主体がそれまでと異なる環境に置かれ、それまで社会と整合していた自我理想がもはや集団の規範に反するとき、それは複数の理想の間で葛藤が生じるだろう。著者が挙げているのは移民のケース。

  1. 対象リビドー

「性的リビドーは、たとえば空腹と渇き[…]のような一次欲求を満足させる対象への愛着の中に介入する。対象愛の当初は分散していた構成要素は、父母のイマージュの周囲に集結し、次に置き換えによって新しい対象に移っていく」
性的リビドーが対称リビドーに変化し、父母を中心として組織される。
参考に、この備給が断絶される状況の例を挙げておこう。
「いつも軽蔑すべきだと思っていた人が、逆にきわめて賛嘆にあたいすることに気づくことは、恥を生み出すことができる。逆の状況もまったく同様である」(53)

  1. 愛着リビドー

「愛着は栄養欲求の充足、もっと広く考えればリビドーの充足に由来するものではない。愛着はごく幼い時期[…]母親に方向付けられた後、代理の人々に向かい、つぎに家族とは別の集団に向かう」
我々が一人でいるよりも他人との関係の中にいたほうがよい、と好む背景には、この「愛着の必然性」がある、とされている。


これら三つのリビドー備給は、常に相互干渉しており、諸々の恥は、これらの複合から生まれる。更に、恥の「伝染性」つまり家族的/社会的に伝達される恥という問題も、この備給の多様性から理解される。(54)本書の後半はこれら三つのリビドーの力関係の図に恥の各症例が位置づけられている、といえるだろう。また恥は主体のの個性化の過程において同様に個性化される。それは本書で言われる恥の対象の「歴史的な」軸だろう。

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何を恥じるか、恥の対象を決定する軸には二軸がある。歴史的な軸と、アクチュアルな軸である。歴史的な軸は、恥に結び付けられる過去の経験がかかわっており、アクチュアルな軸はまさしく現在において、主体と環境のあいだで備給が問題となる場所を指し示す
また、歴史的な軸には二つの様態がある。個人的な歴史と、家族的な歴史である。歴史的な軸においては恥に結び付けられる経験が問題になるが、その経験(恥の経験)は親から子へと、身振りなどによって、非言語的に伝達される。それが後者の家族的な歴史、といえる。
これらの二軸において、やはり先に挙げた三種の備給に基づく分析ができる。たとえば、恥の個人史の性的備給の項目には、その主体がどのような欲動の管理の様式を学んだか、が書かれていると思われる。

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また、先の三つの主体の欲動備給が依拠する、「主体の同一性の本質的な目印」が存在する。パーソナリティの核心には、個人の発達初期から保持された、パーソナリティの主客未分で分裂した部分、「パーソナリティの精神病部分」「両義的な核」(70)が存在するが、主体はその不確実性を縮減しようとして、それを環境の安定した要素、「本質的な目印」に付託する。
しかし、環境の突然の変化によってこの投影が解除された場合、この分裂した部分が主体に回帰してくる。主体は排除したものに対処する必要性に迫られる。これを同一化すれば主体は今まで排除していた対象に同一化するために恥を感じることになり、同一化せずに他の対象に再投影すれば主体は再度安定するが、本質的な目印の混乱は、それを許さない。ところで、ここで恥は肯定的な情動として働いている。それは「恥を感じる主体」としての自覚を可能にし、主体の統一性をとりあえずとはいえ再構成するのである。
ただし、恥は決して単純な情動ではなく社会的な感情であるため、恥を感じる主体には二つの審級が存在する。「恥じさせる審級」と「恥じる審級」である。そして、恥じさせる審級への想像的一体化は、主体がその崩壊した外皮(外界から内心を保護する精神的皮膜)を再構成する役割を、他者に完全に依託する危険性を、つまり洗脳の危険性をはらんでいる。(洗脳が可能なのはこの外皮の崩壊において、価値が消失するからである)それでも、それはひとつの再象徴化、つまり自己の奪還の側に属している。(79)

随分と長くなったがこのような理由で、本書は恥の肯定的評価を主張している。

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つまり、恥は脱-社会化された主体の共同体への再所属の、そしてそのために必要な諸々の再編成への欲求である。七、八章は分析医がどのようにして患者の恥に向き合うべきか、が書かれている。一言で、イマージュを媒介にして症状に対処する道といえるだろう。

本書では初めから恥におけるイマージュの不在(という傾向)が指摘されていた。本書の冒頭。「愛、怒り、羨望、あるいは後悔については図象的な表象はたくさん存在するが、恥についてはほとんどないということである。それは、恥が口に出されたり、表に表されたり、表彰されたりすることが無いからである」。恥が自己イマージュの混乱を伴うのは、イマージュを支えるものが恥において混乱させられるからだ。だから治療実践もイマージュにかかわるのだが、恥ずかしながら白状すると、私にはよく分からない。これは一種の恥の告白だが、本書では告白は、このように書かれている。まず、制度化された告解は、恥を罪悪感に変えることで、恥じる主体の社会的再統合を可能にする社会的システムである。(164)
それとは異なって、制度化されていない恥の語りが成功するかどうかは聞き手にかかっている。AがBに打ち明け話をするとして、Bが話を聞くことで恥を感じるのであれば、それはAにとって恥じることは当然である、なぜならAは実際に恥じるべき行為をしたのだから、という告発に転換する。この危険をはらみつつ、しかしAが恥を語るとすれば、それはやはり証人の態度へのある種の期待が、告白の本質に属していると考えなければならないだろう。それは具体的には以下のようなものだろう。

恥は何よりもまず第三者によって押し付けられたのであるから、証人へのアピールは恥に絶えずつきまとっている。もっといえば、恥を感じることなく、つまり恥を送り返すことなく恥を受け入れることができる、したがって恥じる主体に共同体の中に居場所を復元してやることができる証人へのアピールである。

(169)
だから、我々は恥をかくことを、それ自体恥ずかしいことだと考えてはならない。本書の結語にもそれは示されている。恥は、警告と症状の間を揺れ動いている。