欲望について:ウィリアム・B. アーヴァイン

欲望について
欲望について
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ウィリアム・B. アーヴァイン
白揚社
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もちろん、私たちはみな欲望をもっている。まず注意しておいてほしいのが、本書において欲望はもっとも広い意味で使われているということ。行動に影響するすべての心的要素、という意味合いで、リビドーなどを想像してもらえればいいかもしれない。(自信はないが)
本書は新しい知見や方法を披露しているわけでなく、むしろ今までに欲望について語られてきたことを整頓したような内容になっている。どちらかといえば哲学的にというより、実践的に役立つ本だろう。欲望は我々の現勢的意識を潜在的に規定し、つねに影響を及ぼしている。一般的によい欲望も悪い欲望もあるが、欲望に立ち向かうためにはそれをよく知る事が重要だからだ。

生物学的インセンティブ・システムが欲望を生み出す平面として想定されている。我々の意識に与えられたそれぞれのインプットに快と不快を与え、それによって欲望を構成する。これには生得的な部分(傾向)もあれば、後天的に獲得されたものもある。もちろんそれ自体はよいものでも悪いものでもない。この平面がなければ、われわれは「欲望の危機」と本書においていわれる、要するに抑鬱的な状態に限りなく近づくだろう。反射などを除いたわれわれの現実的な行動は、欲望(企図)によって為されるからだ。

快と不快は非常に多様な種類を持っており、例えば成功の快と性的な快、満足の快などはそれぞれ違う。不快については言わずもがなで、一つの行動がそれぞれ別々の快を充足し、それが対立しあう、ということが往々にしてある。こうした別々の原則が対立しあうところに我々の葛藤が生じる。
またこれらはすべて、インセンティブ・システムの平面内において起こるものと考えられる。だから例えば倫理と欲望といった葛藤もこの平面内で起きている。倫理も「よりよい自分になるという欲望」とか「良心にかなうようにありたいという欲望」にいいかえられるからだ。

その上に欲望の具体的な相が(例えば一章や二章で)描かれるのだけれど、その辺りは簡単に要約できそうだ。一章では欲望はその諸強度が変化するものであるということ、二章ではわれわれは他者の欲望を欲望するということがいわれている。
また続いて欲望には道具的なものとそれ自体を欲望するもの、後者のうちには快/不快から由来するものとしないもの、として分類しえ、道具的な欲望は知性の助力によって、つまり情動と知性の絡み合いによって常に生産されている、ということがいわれる。そうしてそういった情動の条件、いわゆる快不快の条件としての生物学的インセンティブ・システム(biological incentive system)にまで辿りつく、というのが本書の流れ。

もちろん、われわれはこのようなシステムの枠内に完全に従属しているわけではない、少なくともそう信じている。例えばメルロ・ポンティがいう「物理的秩序」から「生命的秩序」、そして「人間的秩序」への移行は、欲望の発明とその制御としてみることもできるし、本書でいわれているように、一時的であればこういった欲望の図式に抵抗することもできる。それは結局この図式から一歩も出るわけではないけれど、常にこの図式上で起こる葛藤を減らす、つまり欲望に由来する悩みを調停するためには、知性は役に立つだろうからだ。

本書の終わり半分は、この技法を紹介するのにあてられている。ここでは詳しくは立ち入らないが、宗教(仏教、キリスト教イスラム教)と、ギリシャの哲学者、西洋と東洋の思想家たちが挙げられている。(余談だけれど、ここで禅がいわれ、六祖慧能に並んで一休宗純良寛も紹介されている。外国人の著者が日本の禅者に詳しいのは意外だった)

ともあれ、それは読んでもらうとして、最終章で欲望についての処方箋といえるような条がある。実践的に役立つといったのはここだ。引用する。(page.275-、実際には、それぞれ説明が続くのを省略した)

・私たちは欲望を信用してはならない
・欲望の対処法について他の人々に忠告を乞うときは慎重にすべきである
・欲望を抑制する戦略は二段階からなる
・私たちは欲望についての理解を深めなければならない

われわれが欲望について理解を深めなければならない、ということが、本書を後から包括して規定する。そのために本書が書かれたのだろう。もちろん、こういったことはわれわれがよく知っていることである。「そんなこと知っていた」といわれるだろうし、それでも尚こういった整理された形で受け入れることは、何かの役に立つのではないかと思われた。なぜなら欲望は巨大で、いかに理性的な人間(こういった人物の例はいくらでも挙げることができるが、それに意味はないだろう)であろうと、それに立ち向かうのは容易ではないからだ。