パミラ:サミュエル・リチャードソン

筑摩世界文学大系 (21)

リチャードソンの「パミラ」はパミラが両親に宛てた書簡を編集した形式になっている。かかれた時間が作中の時間のそれぞれの切断面であり、また書かれた時点での正直さはもちろん保障されている。手紙はパミラが仕える「ご主人」に読まれることも、また両親に読まれることも、またそれ以外の人物に知られることもある。ご主人がパミラを妾にしたいという欲望を捨て、彼女を妻にするのもパミラの本書そのものを為す手紙を読むからで、言うまでも無いけれども、ここでは書簡の教育効果が予期されている。
パミラは心理小説としても優れている。またその他の歴史的価値においてとくに優れているといわれる。(おそらく本来は、教育小説)それは解説にもあるように、<英国小説の父>とよばれたり、ヘンリー・フィールディングに単純ではないもののライバルとして影響を与えたことによって、私たちはしることができる。ともあれ、そういったことは本国のwikipediaが詳しかったので、それを挙げておく
Samuel Richardson - Wikipedia
Pamela; or, Virtue Rewarded - Wikipedia
ストーリーは非常に単純で、白雪姫を想像してもらえれば、異同はあるものの、簡単さに逸脱するほどは外れない。教育小説であり、教訓をもたらすものであるからには、その背後の道徳を知る事が必要だと思うが、それは恐らくもはや通用しないものとなっている。
翻訳された解説において、リチャードソンにおいて「徳」とはなにより公共のものである、といわれるが、もちろん、徳は示しうるもので無ければならない。ディヴィッド・ディシスはつまり、神との関係において徳を内的に実践するのでなく、公的な社会生活のうちで示されねばならない、といっているのだった。それは規範なので、状況に合った様々なタイプが必要となる。そのため大勢の人物がそれぞれの功利に従って行動し(パミラ、ご主人(mr.B-)、ジャーヴィス夫人、ロングマン爺、ゴッドフリー嬢、アンドルーズ夫妻、ウィリアムズ牧師、ディヴァーズ婦人)それぞれが教育的な効果を挙げるのだけれども、そのなかで他の人物の徳(と不徳)はは行動として提示されるに留まるのに、パミラの場合は手紙において内面の徳が書かれている。パミラは、両親に宛てた書簡において、心理的な規範を示している。なぜかといえば、貞節さは、心の徳である。それは行動においては示されない。Mr.B-は、パメラの書簡を読み、改心するのだし、それ以前はパメラの事を何とか籠絡しようとしていたのだから。
手紙においては、内面はそのまま顕れ、それを伝えることができる。この伝達可能性こそが「意識の流れ」など後の個人化された作品群とパメラを分けるところである、と解説に言われている。それは内面の外面化ともいえ、それが個人をどこかで損なっていることは、間違いないだろう。パミラは両親(アンドルーズ夫妻)によりその道徳観を教えられたのだし、そのため幸せになるとしても、我々からは少し遠く映る。もちろん私たちにパミラの道徳をあれこれいう資格が無いにしても。
本書の出版は1740年。ちょうど270年が経ち、このような長い小説は読まれなくなった。当時、本書はベストセラーとなり、様々な、今で言う「二次創作」が生まれた。