危険な関係:ラクロ

危険な関係〈上〉 (岩波文庫)
C.D. ラク
岩波書店
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危険な関係 下 岩波文庫 赤 523-2

危険な関係」とは、少なくとも2回、どちらもヴォランジュ夫人の書簡で使われる言葉である。ツールヴェル法院長夫人は放蕩者ヴァルモンの誘惑を受ける。ツールヴェルは夫がいるために、この関係が不倫へと接近するのを懸念したヴォランジュの書簡。

私はヴァルモンの行為の動機は、あえてせんさくいたしますまい。その動機も好意とおなじように立派なものだとかんがえたいのでございますが、でもやはりあのひとはこれまで、あちらこちらの家庭の中に、不和や恥辱や騒動を持ち込むことで日を送ったような人ではございませんか。(…)
あなたがおっしゃるように、あの人はただ男女関係の危険を示す一例に過ぎないにしても、やはりあの人自身が危険な関係の当の相手になるわけではありませんでしょうか。あなたさまは、あの人がいいほうに立ち直るとでもお考えでしょうか。

(書簡32)
そしてもう一度は小説の終わり付近、彼女の娘に起こった恐るべき出来事についてロズモンド夫人への手紙の中で女性の弱さについて嘆いている。

ここしばらく前から、何という悲運が身のまわりを取りまき、私の最愛の人たちを襲ったことでございましょう。私の娘と、そうして私のお友達と。
ただ一度の危険な関係が、どんな不幸をひきおこすことか、考えただけでも身の毛がよだつばかりでございます。このことをもっとよく考えましたならば、いかなる苦しみも避けられようではございませんか。

(書簡175)
彼女は女性は理性によって誘惑者から身をまもることができると考えていたが、ツールヴェル夫人も娘のセシルもヴァルモンの手に落ち、その嘆きで小説は終わる。

この「危険な関係」とは、何だろうか。

簡単に本作品における人間関係を整理しておこう。
セシル・ヴォランジュはジェルクール伯爵と婚約しているが、その内にダンスニーとの恋に落ちる。親ヴォランジュ夫人には二人の恋愛は認められず、二人の面会は禁止されるが、そこをヴァルモン子爵が取り成す。(本作品におけるヴァルモンの共謀者であるメルトイユ夫人は、ジェルクール伯爵に恨みを持っており、セシルとジェルクールの結婚後にダンスニーの件を公表することで彼の面目をつぶそうと考えていた)ヴァルモンはダンスニーからは信頼を得ているが、セシルやヴォランジュ夫人からの信頼は得ていない。ダンスニーから彼を信頼するように、と言われるも、彼女はダンスニーの知らないうちヴァルモンに強要されて強姦される。ヴァルモンには他に心に思う女性がおり、それがツールヴェル法院長夫人である。策略を用い、彼女を手に入れるも、メルトイユ侯爵夫人はそれが気に入らない。ある種の嫉妬から、彼女はヴァルモンがセシルを篭絡した事を騎士ダンスニーに伝え、それを聞いたダンスニーはヴァルモンとの決闘を行う。その決闘でヴァルモンは死ぬが、その前にメルトイユの悪行と、それが描かれた書簡をダンスニーに託す。メルトイユは社交界の地位を失い、破滅するがその間にセシルは絶望し修道院に入り、ツールヴェルは死に、ダンスニーも世を捨てていた。

だから要するにヴァルモン子爵にはツールヴェルとセシルという二人の女性がいたことになる。この両方の関係が危険と呼ばれるのだけれど、考えてみるとこの二つは並列ではない。ヴァルモンからセシルへ向けられる欲望は、単なる性欲といったものである。

ここ数日というもの、私の優しい寝所からいままででよりも良い待遇を受け、その結果いくらか気持にひまができてみると、あのヴォランジュの娘がたしかになかなかの美人だということに気がついたのです。そうして、ダンスニーみたいにほれ込んでしまうのは愚の骨頂であるとしても、この私の独り身のつれづれが必要とする気晴らしを彼女に対して求めないということも、やはり私としては愚なことかもしれないと考えました。それに、彼女のためにしてやった心遣いの報酬を受けるのは正当なことだと思われました。

(書簡96)
ヴァルモンの死は、直接的にはセシルを犯したことへの贖いとして訪れる。なぜならダンスニーはセシルの恋人だったから。ただ彼のいまわの際の振る舞いはただにそういった罪の償いであるだけでなく、悔恨に伴うメランコリーが大いに影響しているように思われる。

そうして、当の下手人であるダンスニーさまの手をお取りになると、親しくお呼びかけになり、みんなの前で接吻をなさってから、「みんなも、この方を正しいりっぱな方として、ご尊敬申し上げなければいけないのだよ」とおっしゃったのでございます。

(書簡163)
実の所、ヴァルモンは決闘によって死ぬ前に既に罰せられていた。それはツールヴィル夫人の死によって。ではそれはヴァルモン子爵にとりどのような意味をもっていたか。

そうして、自分にはもはやただ感覚の力(注:肉体的快楽の事)しか残っていないのを見て、早老のこの身を嘆いていたのです。ところが、ツールヴェル夫人はその私に、青春のこころよい夢をとりもどさせてくれました。あの方のそばにいると、享楽というものを必要とせずに、それだけで幸福になれるのです。

(書簡6)
彼と最も密接な文通を続けたメルトイユ夫人は、彼の感情をこう評価する。

ところで子爵さま、あなたをツールヴェル夫人にひきつけているお気持を、ほんとに錯覚に思っていらっしゃいますの。それはたしかに恋ですわ。さもなければ恋などというものはありはいたしません。

しかし彼はその指摘にもかかわらず、それを隠蔽し続ける。

私はあくまでも言い切ります。けっして私は惚れこんでなんかはおりません。

彼女、メルトイユ夫人はその一種の独占欲から、ヴァルモンにある要求をする。

さて私の要求とは、なんとむごい要求とはお思いでしょうけれど、あのめったにない驚くべきツールヴェル夫人を、普通の女、ただあのままの女と思っていただきたい、ということなのです

(書簡134、138)
メルトイユへの尊敬、忠誠、慕情とでもいうような感情から、ヴァルモンはツールヴェルをもっとも残酷な形で裏切ることになる。ヴァルモンはメルトイユからのある手紙をツールヴェルに送る。その手紙は収録されていない(おそらく書簡141における、「きっとこの次のお手紙」とよばれるものがそれである)けれども、その効果が抜群だったことは窺い知れる。

今度のお手紙はまことに独創的なもので、人に見せびらかすにたるもののように思われました。ですから私は素直にそのまま写して、これまたすなおにそのままあの天使のような法院長夫人に送ってやりました。

(書簡142)
ヴァルモンがこの件で与えた傷が彼の想像を超えてあまりに深いものであったことは、ツールヴェルの手紙と、メルトイユの書簡から知られる。

ねえ、子爵さま、女が他の女の心を刺すときには、めったに急所をはずすことはありませんから、傷はなおりっこないのです。

(書簡145)
メルトイユのこの行動は、彼女の独占欲が、彼女がヴァルモンに「あの女以下の女」と思われたことで傷つけられたことからきている。彼はこの件においてはっきりとメルトイユとの対立を意識する。実際メルトイユはダンソニーをそそのかしヴァルモンをついに殺害せしめる。ヴァルモンとツールヴェルの恋も、メルトイユの予言どおりに終結することになる。ツールヴェルの容態に隠れた形だけれども、ヴァルモンとツールヴェルとの破局はもはや悲恋と区別が付かないところにまで接近する。

じつは、ヴァルモンさまからのお手紙を、この私(注・ヴォランジュ夫人)が受け取ったのでございます。あの方は私を打ち明け役として、なおまた、ツールヴェル夫人への取り持ち役としてお選びくださったのでした。……夫人宛のものはそのままお返しいたしました。……それにしても、ヴァルモンさまのこの絶望を、あなたさまは同お考えあそばしますか。……

"*"本書簡集には、この疑問を解決すべきものがみいだされなかったので、ヴァルモン氏の手紙は省略した(原注)

(書簡154)
ヴァルモンの恋愛は露骨でもありながら隠されてもいる。むしろ隠すことで露呈させられている。ここで当然一つの疑問が起こってくる。ヴァルモンのツールヴェル夫人への恋愛は本当の感情であり、つまり彼らにおいては本当の恋愛が成立していた。とするとセシルの場合とツールヴェルの場合をいかに区別するのか。双方を危険な関係と一括するものは何だろうか。ここで恋愛そのものを危険な関係と言い切ってもよいものだろうか。
ただ、正しい恋愛が悲劇的な結果に終わるというのは、例えばロミオとジュリエットなどでわれわれが知っているところと変わらない。恋というのは昔から危険を含んでいた。実は本書にはもうひとつの伏在する思想がある。それは女性の身をまもるにあたる弱さというものが繰り返しいわれることだ。女を我が物にしようとする男の形象は、本作品の厳選された人物配置ではヴァルモンに集中している。

女性が身をまもる力に弱いということは、われわれ男性にとってなんたる幸運でしょう

(書簡4)

これまた一種の戦争とよく似たものであることは、私たちもしばしば経験したことなのですから、

(書簡125)
またメルトイユからセシルへの手紙にも美徳の難しさが率直に表出している。

ところが快楽のほうはあとまでのこるのです。

口で言う通りにはできず、抵抗することがあんなにむずかしく、ヴァルモンが出て行くときには残念なような気がしたというほど気持が錯乱していたのは、はたして恥ずかしさのためだったのでしょうか。

(書簡105)
(ちなみに、この抵抗できなかったということがセシルの罪であるとされる。彼女は精神的には姦通を犯さなかった(書簡115、「なにしろ、わたしはあの娘の頭の中にさえもはいりこんではいないのですからね」)が、肉体的にはそれは罪であるとされる。これが性的関係に伏在しつづける二重性であるし、それは現代にも通用する二項対立である)
本小説には、こうした弱さ、男性の誘惑に対抗しうる人物がただひとり存在する。しかしそれがとりもなおさずメルトイユ夫人なのである。

例外と申せば、ただおひとりメルトイユ公爵夫人だけでございます。あの方だけはあの男に抵抗し、あの男の悪心を押さえつけることがおできになりました。

(書簡9)
だから要するに、女性の強さの果てには、悪徳と見分けのつかない虚飾がある。だからこの小説は、書簡体という方法を使って、この見通しのつかなさを描いている。つまり恋愛とただの肉欲との区別がつかないこと(「危険な関係」)、また強さと悪徳の見分けがつかないこと、よい人間と悪い人間との区別がつかないこと(メルトイユ夫人やヴァルモンがそうだったように)。ここにおいて理性が不安におちいる。ヴォランジュの最後の手紙は、それをもっとも率直に語っている。

今こそ私は、われわれの不幸をけいこくしてくれることのできないわれわれの理性は、われわれをなぐさめてくれることもまたできないのだということを、しみじみとかんじておるのでございます。

(書簡175)


この辺りでこの記事は打ち切ることにするけれども、本書は実にこれにとどまらない人間の機敏を描いている。メルトイユの哲学(書簡81など)についてもある種の現実味があるし、ツールヴェル夫人がその倫理に逆らっていかにヴァルモンを愛するに至ったかについても、相当の物語がある。また、やはり書簡はある一定の真実を担保してもいる。そういったことはこの記事では何もかけなかったが。
ちなみに、この小説は1782年に出版された。一年前、ドイツではカントの純粋理性批判が出版されていた頃である。


関連:
書簡体の小説のうち、このブログに記事のある物を挙げておきます。
モンテ・フェルモの丘の家:ナタリア・ギンズブルグ - ノートから(読書ブログ)
パミラ:サミュエル・リチャードソン - ノートから(読書ブログ)
またメルトイユ夫人の性格はサドを大いに思わせる。サド的な人物というのはサドを一編読めばある程度のイメージはわかる筈ですので、絶版でないものを挙げます。

悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)
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