美しき惑いの年:ハンス・カロッサ

ハンス・カロッサ全集〈4〉
ハンス カロッサ
臨川書店
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amazon、上は臨川書店の全集。わたしが読んだのは、下の集英社版の世界文学全集であり、記事にあげたページ数は集英社版によった)
世界文学全集〈第55〉カロッサ (1970年)


1897年。すでに近代は開花しており、ニーチェが神の死を宣告していた。カーディングからミュンヘンへと列車の轟音の中初めて視界に飛び込んできた景色をカロッサはこう書いている。(集英社版世界文学全集「カロッサ」p.16、以下は全て同書)

ついに列車は轟音とともに大きな殿堂の内部へ乗りこんだ。こうして、ものごころがついてからはじめてわたしは、わたしの頭上に巨大な弧を描いている金属とガラスの大屋根を仰いだのである。はじめてわたしは、これから地球上を一巡しようとしている軌道の、鉄の基点の前に立った。このような建物こそは、見通すことの出来る『無限』であり、時間の中の諸景観をつつむ一つの「超時間的存在」であった。

ミュンヘン - Wikipedia ランツフート - Wikipedia
ルードウィヒ王やビスマルク公への尊敬が、特に母親に強く残っていた時代。ランツフートの高等学校を卒業し、ミュンヘンの大学に進学する。ミュンヘンではなにもかもが新しく、若いカロッサは多くの目移りを経験する。認知が次々と更新されてゆく。いくつか例をあげれば、(22page)

わたしは、カーディングの司祭屋敷にかかっていた絵で見たあのすばらしいギリシャ風の門の前に立っているのだ。

また

すると今度は側面の壁にある、ずっと大きい絵に目がいった。その絵の中に明るい情景を為して表されているのは、平和な存在、妨害の無い人間生活の姿である。

けれどもやがて、それらの絵の下に座を占めている生きた現実の女性や男性のほうが、わたしの注意をひきつけた。しかしそれも長いことではなかった。というのは、わたしの目に映じたところでは、彼らのうちのだれも、彼らの給仕にあたっている白と黒の単純な服を着たみずみずしい少女たちの天使のような愛らしさには、およびもつかなかったからである。

ところが、わたしがあれほどの叡智の所有者だと信じ込んでいたこの愛らしい娘も、もっとも肝心な点において目がきかないことを暴露した。つまり彼女はわれらの矮小な友を子供ととりちがえたのである。

同時にこの絢爛たる広間も、大いにその宗教的崇高味を喪失した。

(23-28page)
十八歳の、詩人になるような情熱的な青年が描かれている。詩との出会いの後、彼は医者になるための医学を学ぶ。そこでの一連の授業に、彼は大きな感動を受ける。(31page)

ときとしてわたしは、永久にこの科学に自分の身を捧げようという願いさえ胸中にはぐくんだ。多くの人が未来は化学の時代だと予言しているこの部門に。

そして解剖学も学ぶ。フーコーを思い起こさせる文章が続く。よく知られるように、医学は近代的人間を作り上げた。(実に、医学は近代的な学問だ)解剖を目の当たりにした衝撃を、カロッサはこう表現する。

ところが、いまわれわれが出会ったこんなに多数の存在は、あの花に飾られた立派な葬礼の世界にまったく参加のよすがをあたえられていないのだ。飾りもなく祝福もうけず、無限の死者の行進が解剖学の門を潜って続くのである。「死」さえも大量によって無価値となっているのだ。

(35page)
学問に伴う患者は、医者としても人間としても青年を教育する。自殺未遂や、精神性の疾患をもつ患者から、多くのことを学ぶ。(カロッサは大きな感歎をもって彼ら病者を描いている)
のみならず、彼が陶酔する詩人やパリから来たと偽るドイツ女性、社会主義者などとの交際を経ることで、彼は「時代の中の時代」の空気を呼吸する。それは同時に故郷の喪失でもある。

いまこそわたしは、カーディングの土地を離れることによって自分が何を失うのかを予感しはじめたのだ。

(116page)
彼が淡い恋心を抱くアマーリェは、都市から休暇のため帰ってきたカロッサにとって、別のあらわれをみせていた。

それから彼女を家へ送ってゆくのは、彼女にとって自然のことに違いなかった。そうすればわたしとアマーリェは二人きりになって心安く話ができるのだ。しかしいまわたしと、彼女のくもりのない無邪気な世界とのあいだには、ミュンヒェンにおけるわたしの体験が踏み込んで立ちふさがった。アルディーンは、アマーリェにたいするわたしの新しい感じ方をよび起したのだ

(125page)
またアマーリェについてはこうも書かれる。

アマーリェはその時代精神の圏外にあったのである。彼女は百年以前でも、この岸辺で今の彼女そのままの少女であったろう。

つまり、宗教的に純潔で、昔の牧歌的な感覚を持っている少女だ。それを求めて、カロッサはこの小説を書いていたように思われる。
王の時代や、宗教との間に広がった距離を感じさせる話がいくつか語られた後、青年はゼンツという女詩人と対話する。彼女は「百五十年来バイエルンベーメンの森林地方にいいつたえられている予言」をものがたり、「わたし」はというとそういった諸々のことから遠く離れてしまったことを確認する、のだけれども、後にそうしたゼンツすらも、いずれシカゴへ行く計画があることが明かされる。近代という時代が確実に世界を包み込んでゆきつつある。そのおどろきを、カロッサは「大地のかすかな揺らぎ」を感じた時に比している。(198page)彼が「永久に彼女の郷土に結びついている存在と感じていた」ゼンツですら、郷土から離れて新大陸へ行こうとしていたのだ。
それを彼はローマから続いてきた、単純な魂の生を離れたものとして感じる。(関係があるのかはわからないけれども、カロッサの曾祖父はイタリアからナポレオン軍の軍医として移住してきた、と解説にある)そういった生は、老婆やアマーリェの中などにかろうじで残っているようなものだ。
それを感じていても、もはや彼は都会に郷愁を感じている。オスワルト・シュペングラーが引用される。彼のこの感覚は同時代にフッサールハイデッガーが語っていた「危機」や「故郷喪失」を強烈に連想させるだろう。
「大都市への郷愁は他のいかなる郷愁よりも強力である」
いまや詩すらも都市の詩人によって書かれている。彼が詩にめざめたのも、都市においてだった。そしてその少し前に彼が感動した人造の大理石の建築物(劇場、音楽堂)は、山野がけっして与えない「数千の人が同じ霊感にむすばれて火のような一体」になることを可能にするのだ。

最後に一本の線がひかれる。月まで続く線だ。月は地球の一部であったが、地球から離れ、重力も少ない。それは地球よりも軽く、清純な世界だ。その「内面の月」に住むことで、孤独な人々、つまりわれわれ、をより理解することができるだろう、また、ゲーテの詩はこの月に根を持つのではないか、といわれる。96ページからの引用。

このようなゲーテの作品はおよそ通常とは違った世界から生まれ出たものではあるまいか。

父と青年は共に医師という近代の戦場にたっている。「シュタルツァーの娘」の死がいわれ、それを敗北と認められない父がいる。この娘とはだれだろうか、読みが足りず、確信がないのでいまは言わないことにしておく。

この小説が出版されたのは1941年のドイツだった。作中の時代から四十年が過ぎ、すでに近代が生み出した世界史的な恐ろしさが姿を見せていた。
また記事を書くにあたってwikipediaを調べたけれども、戦中のことはよく分からなかった。詳しい方は、情報を教えていただければ幸いです。