思考の潜勢力:ジョルジョ・アガンベン

本書はイタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンの八十年代から最近までの論文、講演内容をまとめたもの。三部に分かれており、それぞれ「言語活動」「歴史」「潜勢力」が表題にされている。大部だけれども、アガンベンへの入門としても優れていると思う。この記事ではそのいくつかの章を読んでみようと思う。

1もの自体
プラトンの「第七書簡」の引用とその詳細な読解から、そこで登場する「もの自体」の性質がいわれる。まずその定義を確認する。
存在するあらゆるもののそれぞれについて、三つのものがある。名、定義的言説(ロゴス)、像。これらについての認識が知(=第四のもの)であり、この四つを完全に知り、また「互いにこすり合わせ」ることによって、第五のもの、「認識可能な、真に存在するもの自体」がしられうる。それは言語活動と関わりあっている。

すなわち、もの自体とは何らかのしかたで言語活動を超越しつつも、言語活動においてのみ、また言語活動によってのみ可能なものである。

この「もの自体」が実はものを認識可能にするものであること、つまり認識可能性であることが示唆される。そのことによって、われわれは言語活動のアポリアを知ることになる。

だから、言語活動とはつねに、ものをあらかじめ下に置き対象化する。前提するとは、言語活動に基づく意味の形式自体のことである。それはつまり、「これこれの主題について」言うということである。
したがって、プラトンイデアに託した戒めとは次のようなものになる。言いうるということ自体は、それについて言われるところの当のものが言われても、言われぬままである。認識可能性自体は、認識すべき当のものが認識されると、失われてしまう。

しかしそれこそが哲学の主題である。発話の前提は発話自身である。この自己-根拠の構造は、本書の大分をあてて繰り返し探究される。

2言語と歴史
ベンヤミンの「散文自体のイデア」についての解明が行われる。余談だけれども、本書を読んでいく最中で、アガンベンは引用が上手いことに気がついた。その論文を読み終えたあと引用文を読み返すときにそれは実感できる。本論文も引用から始まっている。その部分を引用する。ただし少し省略している。

メシア的な世界とは全面的・全体的なアクチュアリティの世界のことである。そこにおいてのみ普遍的歴史が始めて存在する。(…)普遍的歴史はある言語を前提する。生きた言語にせよ死んだ言語にせよ、これこれの言語で書かれたあらゆるテクストは、その言語へと全面的に翻訳されるのでなければならない。さらにいえば、普遍的歴史自体こそがその言語である。(…)その言語活動は散文自体のイデアであり、すべての人間に理解される。(…)

予備的な考察が続く。言語活動には二つの平面、「名の平面」と「言説の平面」がある。これは源泉と川の関係に比せられるが、理性は名から言説を生み出すことは出来る、けれども名は歴史的に伝達されたものだから、「名の起源は語る者から逃れ去る」。この名の伝達が歴史であり、歴史と同時に意味が生み出される。
われわれの言語についての描写がおわったあとで、ベンヤミンの「純粋言語」または「名の言語」の解明がなされる。それ自体はなにも意味しない、そして何も伝達しない言語。諸言語が歴史的であることの中に露呈されている、また諸言語の根拠としてのそれは、あらゆる言語の意味するものでもある。

あらゆる意味・志向は純粋言語において停止する。つまり、あらゆる言語は何も意味しない言葉を意味しているということが出来るだろう。

ベンヤミンの他のテキストから、この言語は言語(またベンヤミンによれば散文自体)のイデアでもあることがわかる。ここでアガンベンが示唆するのは、イデアとはなにより存在の前史と後史、起源もしくは終焉という全体性にかかわるということだ。それは現象と共に露呈されることによって、当の現象の単独性を救うことができる。もはや現象は伝達や意味や歴史に回収されることはない。そのような言語、純粋言語へと回復された言語は、「あらゆる生成や歴史的伝達を根拠づけるもの」としての役割を終えることになる。それでなにが変わるのか。アガンベンは後のほう(ヴォルター・ベンヤミンと魔的なもの)で過去を救済することに関連して、ベンヤミンの引用理論を参照している。

そこでは、引用は極めて破壊的な手続きとしてあらわれている。そこには保管する力ではなく純化する力、「文脈から引き剥がす、破壊する」力が属しているとされている。だが、引用の持つ破壊力は正義の力である。引用は言葉を文脈から引き剥がして破壊するが、そのかぎりにおいて言葉を言葉の起源へと呼び戻す。

(279p)
起源に呼び戻された言葉は、いかにして救済されるか。それは伝達ではなく、過去を完了させることである。

むしろ、ベンヤミンにとって問題なのは伝統を断絶すること、過去を文字通り完了へと運ぶこと、つまり過去をこれを限りと終わりへと運んでしまうということである。個々の人間にとっても、人類にとっても、過去を救済するとは過去を終わらせることが出来るということを意味する。

ベンヤミン言語哲学はここでも歴史哲学と繋がる。過去を終わらせることによって、われわれは過去に全体性を与えることが出来る。そのため、破壊は正義の潜勢力であるともいわれるだろう。
アガンベンは本書で何度もこのようにして、現勢的なものから潜勢的なものを思考している。それは後期ハイデッガーの「生起」や、アリストテレスと共に潜勢力や現勢力を考えるときにも同様だといえるだろう。

3思考の潜勢力
この論文ではアリストテレスを読解しつつ、潜勢力概念について描写がなされている。潜勢力を考えるにあたって、非常に良い入門となっているだろう。例えば、
そもそも潜勢力とは何か?(334-6p)、なぜ潜勢力の思考が必要なのか(351pまた345p)、潜勢力が現勢力に移行するとき、潜勢力はどうなってしまうのか?(349)そして、潜勢力が現勢力に移行しないことができる可能性、すなわち非の潜勢力であるから、そしてわれわれが欠如の知覚をまさに潜勢力をもつがゆえに持っているとするならば、そこにおいて自由との関係はいかなるものにならざるをえないか?(344)
・・・といった我々が潜勢力に対して持つ諸質問には答えが与えられると思う。ところでこの非の潜勢力やまた受動的潜勢力への示唆は、知られざるハイデッガーの情念論を解き解す(381〜)手がかりになる。また、潜勢力全般に関する考察は論文毎に深められ、ニーチェ永劫回帰において、存在に先立つ像(=類似することへの=力への意思)が「自らの上に自らを刻印すること」によって「受動的潜勢力」(刻印されることによって)と、「能動的潜勢力」(「自ずから動かされ、世界へと自ずから開かれる」ことによって)をひとつにすることが出来るということ、そういったことこそが「無限の潜勢力(dynamis)」であるということなど、多くの主題に沿って展開されることになる。



本書の構成は論文を集めたものだから、散らばっている。索引がほしいところだけれども、人名索引しかないようで、不便に感じる。触れなかったけれど、デリダドゥルーズ、ナンシーなどのフランスの思想家が頻繁に登場させられている。彼らへのアガンベンの態度には、本書じたいが長い期間にまたがってかかれたものだけに変化がみられるが、彼が批判する点は悪しきニヒリズムであるという点がかえって明確になり、彼の潜勢力への注目はその対抗であるという気がした。また、当然のことだけれども「ホモ・サケル」につながる様な思考も見られる。けれどもそれは点在していたので、まとめることはできなかった。
それにしても、アガンベンの思想の範囲は広い。「アガンベン入門」はホモ・サケル・プロジェクトに的を絞って解説されていたけれども、その理由もわかる。この広大な主題をもつ書に、上手くいったかどうかは別としてこういう仕方で挑戦できたことは、本書の論文がそれぞれ明快に書かれていることに尽きる。翻訳もよかった。

アガンベン入門
アガンベン入門:エファ・ゴイレン - ノートから(読書ブログ)